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Information&礼拝メモ
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26.01.11.聖日礼拝『内から外へ光を放つ私たち』イザヤ49:1~6
序 〕 2026年の教会標語「わたしはあなたを国々の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。」 (6)「地の果てにまで」とは大きなスケールのように思う。しかし創造者である神には当然のこと。私たちは視野を広げなければならない。本章は「主のしもべ」について書かれている。 本〕 Ⅰ主のしもべとは誰か 3節に「わたしのしもべイスラエルよ」とあるが、3節冒頭に「私」とかその次に「あなたは」と一人称単数で書かれているので、49章の「主のしもべ」とはイスラエル民族ではない。本来の彼らの使命を代わりに果たし、やり直す存在。それは来るべきメシア=キリストのこと。さらに49章の内容はイエスさまを信じるキリスト者にも適用される。 Ⅱ主のしもべに期待されていること それは「視野の拡大」。しもべに期待し、神が派遣される目的は二重構造になっている。■①「イスラエルをご自分のもとに集めるため」(5)。 しかし、すぐに神はそれを「小さなこと」と語られる。 ■②もう一つの目的は、しもべを「国々の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたら す者とする。」(6
佐賀教会 インマヌエル
1月21日読了時間: 2分
26.01.04.年頭礼拝『むしろ、神さまから知られ、覚えられている私たち』イザヤ49:13~16
序 〕 今朝は一年最初の日曜礼拝。本来ならばその年に与えられた教会標語に基づいて語るが、今朝はその目標を期待して下さっている「神さま」について、まず心に留めるように導かれた。キーワードは「あわれみ」。あわれみ=ヘブル語原語では“ともに苦しむ”との意味。 本〕 Ⅰあわれみとは神さまのご性質-「主がご自分の民を慰め、その苦しむ者をあわれまれるからだ。」(13) 神があわれみ深いというのはどの宗教でも教える。しかし「いつくしみ深き 友なる イエスは」との讃美歌にあるように、あわれみ深い神が「友だ」と伝えるのはキリスト教のみ。 ■ヘンリー・ナーウェンの言葉「あわれみを経験する瞬間は、多くの場合、言葉ではなく、実は深い沈黙が流れる時だ」 ナーウェン自身が絶望していた時、二人の友がただ黙ってそばにいてくれたという。これが「あわれみ」(苦しみの共有)私たちが祈っても神はその苦しみの意味を解説されない。沈黙されていることが多い。でも臨在をもって傍にいて下さる。それが神のあわれみ。 Ⅱあわれみなき社会で生きている私たち-あわれみの逆は何か?「競争」。...
佐賀教会 インマヌエル
1月21日読了時間: 2分
26.01.01.元旦礼拝『みことばの力によって望むことを成し遂げ、成功させる神』イザヤ55:8~11
序 〕 新年最初の礼拝で心に留めたいことは、「神さまのみことばの力」である。 本〕 Ⅰ圧倒的なみことばの力-11節 本章の背景~バビロンとの戦争に敗れて国が滅ぼされ、イスラエルの民たちは皆、奴隷にされた。そんな彼らにイザヤは、70年後には解放されて、国に戻り、神殿も建て直すことが出来ると預言した。ところが誰も前に進もうとしなかった。彼らはあきらめていたからである。■私たちも、何度やっても失敗ばかりが続くと、新しいことは期待せず、あきらめてしまうのではないか?年が改まっても、特に変化を求めず、荒波立てずにやり過ごせたらそれでいいと思ってしまう。イスラエルの民もそう思っていたのではないか。そのような彼らにイザヤが語った神のみことばが11節だった。「あなたたちの不安や無関心に関係なく。わたしが事を行なうと言ったら必ず成就する」と神は宣言された。 Ⅱみことばが、すべてを生かす-12,13節 みことばを受けとめたら、どんな結果が生まれるか?■バビロンによって滅ぼされ、荒廃した町の回復が宣言された。■私たちの日々の生活においても「喜びをもって出て行き
佐賀教会 インマヌエル
1月21日読了時間: 2分
25.12.28.年末感謝礼拝『世の終わるその時まで、私たちに保証されていること』マタイ28:16~20
序 〕 今朝は、この世が終わるその時まで、確かに保証されていることを心に留めたい。 本〕 Ⅰ私たちに保証されていること それは、いつもイエスさまが私たちとともにいて下さるということ。マタイの福音書は「インマヌエル」(1:23)で始まり、「インマヌエル」で終わる(28:20と言われている。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」とのイエスさまの宣言から明らかにわかることは何か?それは今私たちが生かされている「この世」には終わりがあるということ。では誰が締め括るのか?それはすべての権威を持っておられるイエスさま。■「世の終わりまで」とあるが終わったら手放されるのかというとそうではない。世が終わったら新しい天と地が始まることになり、そこからイエスさまとの関係は永遠なので、そのことは言うまでもないこと。ただ肉体の命がある限り、私たちには戦いが続く。その間中、イエスさまは私たちから離れないでいて下さると宣
佐賀教会 インマヌエル
1月21日読了時間: 2分
25.12.21.クリスマス・キャンドル礼拝『ともにいて下さる神・救い主イエス』ヨハネ1:1 マタイ1:23 申命記31:8
序 〕 引用した三つの御言葉に共通していたひと言は「ともにいる」。朗読した順で、 先週と同じタイトルの「ともにいて下さる神・救い主イエス」ということを心に留めたい。 本〕 Ⅰヨハネ1章1節 なんとかイエスさまのことを伝えたいと思った時に、ヨハネは「ことば」という表現を用いた。 ■「ことば」とは何か?それは自分の心のうちにあるものを外に出す時に用いるもの。それによって私たちはその人自身を知ることが出来る。 ■神がご自分の思いを外に出された時、いつでもイエスという存在になっていた。いわば「歩くことば」、それがイエスさまだった。神さまはイエスさまを通して私たちとともにいることが出来なさった。 Ⅱマタイ1章23節 イエスさまの存在自体が「インマヌエル=神が私たちとともにおられる」を体現していた。なんとなれば、私たちとともにいるために、神ともあろうお方が私たちと
佐賀教会 インマヌエル
1月21日読了時間: 2分
25.12.14.聖日礼拝 アドベント第三週 『ともにいて下さる神・救い主イエス』マタイの福音書 1章22~23節
序 〕 今朝は「ともにいて下さる神・救い主イエス」というタイトルで、二つのことを 心に留めたい。 本〕Ⅰ 聖書が伝える神とは? それは「ともにいて下さる神」ということである。どこかの観光地に行くと、そこにはお寺や神社がある。年に一度、あるいは特別な時にそこに行ってお参りをする人もいる。けれども聖書が伝え、キリスト教が示す神さまはどこかに行く必要がない。ずっと私たちとともに、私のそばにいて下さるお方である。■「その名はインマヌエルと呼ばれる」と書かれていたが、誰がそう呼ばれたか?イエスというお方である。このお方の人生はインマヌエルそのものだったと言える。「それは、訳すと「神がともにおられる」という意味である。」イエスさまがそばにいて下さる時、人々は神が自分とともにいて下さる愛を感じたに違いない。聖書が伝える神とは、ともにいて下さる神さまで、 私たち人間にイエス・キリストとして示されたお方である。 Ⅱ 聖書が伝える救い主とは? どこからか飛んできて助けてくれるスーパーマンのような救世主ではない。当時のユダヤ人もそう考えた。だから家畜小
佐賀教会 インマヌエル
2025年12月25日読了時間: 2分
25.12.07.聖日礼拝 アドベント第二週『主は来ませり!』テトス 2章11~14節 津村貴美子師
序 〕 2025年クリスマス・アドベント(待降節)の第2礼拝の朝。 救い主イエスのご降誕という神の恵みは、一体何処へ現れたのだろう。 本〕Ⅰ 不敬虔とこの世の欲(2:12)が渦巻く中へ。主は来ませり! 神は独り子イエスを宿す場所として寒村ベツレヘム(パンの家の意)の家畜小屋の飼い葉桶を選ばれた。飼い葉桶とは汚く汚れた家畜の餌箱。それは他を愛することも理解することも慰めることもできない汚れた罪だらけ(ロマ2:29~参照)の人の心の象徴。そのような人の心の中へ主は来ませり!貧相な小さな寒村(貧しい心の人間)ベツレヘムが文字通り豊かなパンの家になる。 Ⅱ 私たちのためにご自分を献げられた(2:14)カルバリの十字架へ。主は来ま せり! カルバリとは主イエスが十字架につけられた丘の名。そこは別名「されこうべ・頭蓋骨」という処刑場。人間の罪の市場であり人間の限界破局破滅のシンボルがカルバリである。しかし、このカルバリの十字架へ、人々を罪から贖い救い出すために、主は来ませり!救い主イエスによって克服されないカルバリはない。クリスマスの出来事は
佐賀教会 インマヌエル
2025年12月25日読了時間: 2分
25.11.30. 聖日礼拝 アドベント第一週『受け入れ難い現実を前にした私たちへのメッセージ』マタイ1章18~25節
序 〕「ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい」 これを現代に生きる 私たちへの言葉として考えるとどうなるか。「目の前の、受け入れ難現実を、 そのまま受け入れなさい」 今朝はこれを神からのメッセージとして受けとめたい。 本〕 Ⅰ受け入れ難い現実 ①ヨセフにとってそれは?=突然妊娠したと告げた婚約者の存在。彼にとってマリアは愛するべき人。一日も早く結婚して幸せな人生を始められると期待していた。その喜びが完全に奪われたと思われた。 ②私たちにとってそれは?信頼していた人から裏切られたり、突然病に打たれたり、愛する人と死別したり、受け入れ難い現実を私たちもたくさん経験する。 Ⅱ現実を前に葛藤する私たち ①ヨセフの葛藤=マリアの妊娠は聖霊なる神さまによると聞かされても、頭では理解出来た が心がついていかない。何日も葛藤の日々が続いたのではないか。それが人間だと思う。 ②私たちの葛藤=目の前に起こった現実をすぐに受けとめることの出来るキャパシティもな ければ、信仰で乗り切るだけのものもない。キリスト者であっても、もろくて弱い。
佐賀教会 インマヌエル
2025年12月25日読了時間: 2分
25.11.23.聖日礼拝『自分の足でまっすぐに立ちなさい』使徒の働き14 章8 ~17 節 山本良子師
序 〕 人は見たものにとらわれやすい。奇跡やしるしを見たいと願う。聖書にある奇跡やしるしは事実であるがそれを認めようとせず、疑いや偏見で否定しようとする。もし目の前に奇跡が起きたなら信じますというのではないだろうか。イエス・キリストの十字架と復活を見たなら信仰をもって歩みだすことができる。 本〕 Ⅰ神には不可能はない 生まれつき足が動かず、一度も歩いたことのない人が神の権威と力によって語られたことばで立ち上がった。「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」(10)そのことばを聴いて彼は信仰をもって立ち上がり、歩き出した。神には不可能はない。人は信仰によって神のわざを見ることができる。 Ⅱ私たちは偶像崇拝に警戒しなければならない 群衆は奇跡を見て驚いた。それと同時にパウロとバルナバを崇めて祭ろうとさえした。私たちは偶
佐賀教会 インマヌエル
2025年12月1日読了時間: 2分
25.11.16. 宣教聖日礼拝『どうか、あなたがしようとしていることをなさってください』 ヨハネの福音書6 章1 ~6 節
序 〕 今朝は教団指定の「宣教聖日」。宣教とは何か。論を学ぶことも大切だが、身近に起こる現実問題の中でイエスさまと向き合ってきた体験を証しする。それが何よりの宣教ではないか。今朝の箇所から大きな現実に向き合う主の姿を学ぶ 本〕 Ⅰ主はしようとしていることを持っておられた 目の前の大群衆は「大きな現実問題」だったと言えるのではないか。ピリポを試された時、主は「ご自分が何をしようとしているのかを、知っておられた。」(6)■主がしようとしておられたこととはどんなことだったか? ①私たちが失望し、無力感にさいなまれる現実問題をひっくり返して下さるほどのこと。 ②人間の計算や思惑をはるかに超えるほどのこと。ピリポは「足りません」 アンデレは「何になるでしょう」と返事をしても、主はしようとしていることを持って下さっていた。何と心強いことだろう。 Ⅱ主がしようとしていることを妨げてしまう私たち 食べて満足したはずの群衆が、それでもまだイエスさまに問い返したひと言は衝撃的。「私たちが見てあなたを信じられるように、どんなしるしを行われるのですか。何をして
佐賀教会 インマヌエル
2025年12月1日読了時間: 2分


12月21日(日)10:30~ クリスマス・キャンドル礼拝を開催いたします!
詳細は以下のPDFをご参照ください。
佐賀教会 インマヌエル
2025年11月22日読了時間: 1分
25.11.09.聖日礼拝『最高に味わい深い人生を送る秘訣』 Ⅰペテロ2:3~6
序 〕今日の午後は「こころとからだの健康講演会」という伝道の集い、来週は宣教聖日。 それで、今日は「伝道」ということを心に留めたい。ペテロは手紙の中で、伝道は しなければならないことというよりは、むしろ自分の内側になされた救いの喜び と感動が抑えきれないものとなって外に表れてくるものだと書いている。 キリストのゆえに私たちは「最高に味わい深い人生」を送ることが可能になる。 本〕 Ⅰキリスト者の試練の捉え方 「宗教は弱い人間が信じるもので、人生の苦しみに耐えきれそうになくなったら、その時初めてすがるものが宗教だ」と多くの日本人が考えている。そのような人々に伝道するには、まず聖書がどのように「人生の苦しみ=試練」を捉えているか。それをキリスト者はどのように身に着けられるようになったかを語る必要がある。■ペテロは救われたばかりの信者たちに「試練はつらいだけのものでなく、尊いものだ」と励ましている。「朽ちていく金よりも高価」(Ⅰペテロ1:7)。再臨の時にイエスさまがご覧になるのは試練の時に私たちが働かせた信仰で、それを主は称賛して下さ
佐賀教会 インマヌエル
2025年11月22日読了時間: 2分
25.11.02.聖日礼拝『神は、あなたを絶対に見捨てない』申命記31章1、2,6節
序 〕大事な局面で私たちを神さまは見放すことはなさらない。特に今日、厳しい現実 の中にある方々へのメッセージとして「あなたを見捨てることなど絶対にない」と 神さまが語って下さっている。今朝は「主はあなたを見放さず、あなたを見捨て ない」と語ったモーセにとって、この言葉がどんな意味を持っていたかを学ぶ。 本〕 Ⅰ人生の最期の告白 百二十歳の自分の限界を悟って、モーセが最後の力を振り絞って語った遺言的メッセージのまとめが「申命記」。人生を振り返りながら、特につらかった荒野の40年を思い出した時、彼から出てきたのは不平不満ではなく、「主はあなたを見放さなかった」との言葉だった。 Ⅱ彼自身の体験的事実 このひと言は、モーセの思想でもなければ哲学でもなかった。彼が自分で体験したことだった。だから民たちにまっすぐ語ることが出来たであろうし、聞く者にも説得力を与えた。■私たちにとって体験的事実となっているものは何か?「みことば」ではないか。客観的真理として学んできた「みことば」が体験的事実となった時、人は変わる。私たちは体験したみことば、そして生きておられ
佐賀教会 インマヌエル
2025年11月13日読了時間: 2分
25.10.26. 教団創立記念礼拝&SP礼拝『私のすべての必要を満たし、支えて下さる神』 ピリピ4:18~20
序 〕80年の歴史を数える教団創立記念礼拝と、すぺしゃるサンデー礼拝の両方を覚えつつの礼拝である時、共通して考えられることは「感謝」だと示された。この年に至るまで確かに「インマヌエル」という名のごとく、神がともにいて下さったことは間違いない。同時に群れのために祈り、協力された信徒がたの存在に改めて感謝するべきだと示された。 それで今朝はピリピ書を開いた。 本〕 Ⅰ牧師を支える信徒の姿~ピリピ教会の信徒たちからパウロ牧師へ ①彼らは牧師のことを心配する信徒たちだった。「私を案じてくれるあなたがたの心」(4:10)その心をパウロは「主にあって大いに喜んで」いた。(10) ②彼らは牧師を物心両面で支えていた。「物をやり取りしてくれた教会は他になかった。」(15) *ピリピ人への手紙の内容はそもそも「感謝状」だった。■パウロはその贈り物をどう位置付けていたか?「神が喜んで受けてくださるささげ物」(18) ささげる方も受け取る方も、これは健全な理解。実際には牧師や教会にささげるのだが、それは神さまに喜ばれる物であるように祈りつつささげるべきである。..
佐賀教会 インマヌエル
2025年11月13日読了時間: 2分
25.10.19.聖日礼拝『抱えている問題以上に大いなる方が私を支えて下さる』詩篇3:3~6
序 〕 10/13のJHA日本聖化協力会40周年の記念大会で、講師のロン・スミス博士がチャレンジして下さった。「どちらが大きいか。今抱えている現実か?自分が信じている神さまか?」 今朝も同じメッセージを示されている。 本〕 Ⅰ詩篇の文脈 詩篇3・4・5篇は一つにまとめて説明される。3篇は朝の祈り(3:5)4篇は同じ日の夜の祈り(4:4)~問題が一日経っても変化せず、夜になってもまだダビデは祈っている。5篇は翌日の早朝の祈り(5:3)■一つの問題を彼はずっと祈っている。その連続性を今日開いた詩篇から読み取れる。 Ⅱダビデの抱えていた問題 それは親子問題。表題には「ダビデがその子アブサロムから逃れたときに」と書かれている。欄外にあるように、このストーリーはⅡサムエル15~17章に書かれている。父の王位を狙って息子アブサロムが謀反を起こす。父ダビデは追われつつも、ずっと心を痛め、反逆するアブサロムのことを気にかけていた。しかし彼は途中で殺害される。 Ⅲ私たちの抱えている問題以上に大いなる方 「敵が多くなり、私に向かい立つ者が多くいる」(1)
佐賀教会 インマヌエル
2025年10月29日読了時間: 2分
25.10.12 聖日礼拝『人生のターニングポイントに、いつも十字架の主が立って下さっていた』 哀歌3:19~26
序 〕 これまでの「ターニングポイント」(振り返り地点)を考えると、それは落ち込んだ時、どうしようもなく心が沈んだ時だった。しかしその時、気づかされたことは毎回、 「主のあわれみは尽きない」という恵みだった。十字架がそこに立っていた。 本〕 Ⅰ私が落ちこみ沈む時 私たちの心はその時、どうなっていたか? 「私のたましいは平安から見放され、私は幸せを忘れてしまった」(17)と書かれているような状態ではなかったか。これはエレミヤが当時のイスラエルの人々の気持ちを代弁したとも、本人の言葉ともいわれるが、いずれにせよ、そもそもの原因は南ユダ王国の偶像崇拝から来た神の裁きのゆえである。神殿は焼かれ、祖国を追われ、バビロンに奴隷にされたその有様を思ってエレミヤは哀悼した。その悲しみの歌が「哀歌」である。 Ⅱ落ち込んだ状態から光が差し込む時 人生振り返るとその「思い出は苦よもぎと苦みだけ」(19)としか思えないかもしれない。でも作者はもう一つのことを心に思い起こし、それが一筋の光となった。その時のひと言が21節。「私は待ち望む。主の恵みを」。その光が差し
佐賀教会 インマヌエル
2025年10月29日読了時間: 2分


11月9日(日)13:30~15:00 こころとからだの健康講演会を開催いたします!
詳細は添付のPDFをご確認ください。
佐賀教会 インマヌエル
2025年10月19日読了時間: 1分
25.10.05.聖日礼拝『なぜ平安を失い、どうしたら平安を取り戻せるか』Ⅱ歴代誌16:7~9
序 〕 今日は南ユダ王国のアサ王の生涯を取り上げる。聖書には私たちが不安に 落ち込み、戦いに巻き込まれるのは神さまに拠り頼んでいないからだと 書かれている。逆をいうならば神を信頼するならば平安を得る。 本〕 Ⅰなぜ平安を失うのか 予見者ハナニはアサ王に忠告した。「これから、あなたには数々の戦いが起こるでしょう」(9) 「これから」ということは、これまではそうではなかった。まさにアサ王のそれまでの特徴は「平安」、国は「平穏」だったと書かれている。(Ⅱ歴代14:1、6) 続く7節にアサが平穏だった理由を告白している。「私たちが私たちの神、主を求めたからだ」具体的に彼がしたのは徹底した偶像の除去と神第一の姿勢に民たちを導いたこと。(同2、3)*そして人生一度目のクシュ人との戦いには合格出来た。 (同11~13) ■それなのに、二度目の北イスラエルとの戦いでアサ王は神以上に人に頼っている。=アラムとの同盟。「あなたはアラムの王に拠り頼み、あなたの神、主に拠り頼みませんでした。」(Ⅱ歴代16:7) この時からアサは「数々の戦いに」巻き込ま
佐賀教会 インマヌエル
2025年10月15日読了時間: 2分
25.09.28.第53回九州聖会 合同礼拝『信仰とは、神に委ねること』ローマ人への手紙 4章1~5節 荻野倍弘師
序 〕 九州南北教区にある教会の各地と荻野師ご自身との関係。 会場教会となった佐賀教会は1966年設立。ご自身誕生の年。 本〕 Ⅰすべての始まりは神さまとの出会いから *BTC(聖宣神学院)入学試験での出来事。説教を聴かれる他の受験生全員がノートに書き始める。ご自身...
佐賀教会 インマヌエル
2025年10月8日読了時間: 2分
25.09.21. 聖日礼拝『互いに名前を呼び交わす関係が、これからも永遠に続いていく』詩篇116:1~7
序〕 本篇を読んでいくうちに、神と自分との関係がいかに深く、絶対に切り離せない ものとされていることに気づかされる。今朝は作者が意識した三つを学ぶ。 本〕Ⅰ 死 「死の綱が私を取り巻き」(3) 「私のたましいを死から・・・救い出し」(8) ...
佐賀教会 インマヌエル
2025年10月2日読了時間: 2分
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