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Information&礼拝メモ
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26.05.31.聖日礼拝『幸いな人ルツ』マタイ5:3、ルツ1:15~18 磐田教会 山本良子師
序〕 心に乏しさを覚える者は、神の恵みを切に願う。従い続けて行くならば、人が思い描くこともなかった神の驚くべき御計画に気づくだろう。摂理の主は、すべてのことを益としてくださる。誠実なルツの姿に学ぶ。 本〕 Ⅰ熱心に求める信仰 士師記とともに混乱の時代に起こった一つの出来事をルツ記は描いている。ルツは異邦人である。彼女の誠実さが一つの家の消滅から救い出し、やがてイスラエルの王ダビデの系図に名を連ねることになる。「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です」(ルツ1:16)と信仰告白したルツは姑であるナオミとベツレヘムに帰還した。私達も明確な信仰告白をしよう。 Ⅱ従う信仰 ナオミに同行したモアブの女ルツは、当時の習慣に従って、大麦畑の落ち穂ひろいをして食を得た。自ら進んで畑に出て行ったルツは「はからずも」エリメレクの一族のボアズの畑で落ち穂ひろいをした。ボアズは、ルツが嫁としての責任を果たすため、父母や生まれ故郷を離れてベツレヘムまで来たことをたたえ、祝福を祈った。ナオミは多くの麦を持ち帰ったルツを見て驚き、またボアズの好意を聞いて、「
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6月3日読了時間: 2分
26.05.24.ペンテコステ礼拝『聖霊が降られたことで、より明らかにされること』ロマ5:1~5
序〕 使徒の働き2章の後半にあるように、聖霊なる神さまが心に宿った弟子たちと、彼らの福音を聴いて聖霊が宿った人々三千人で新しいコミュニテイが生まれている。それが「教会」と呼ばれるようになった。ペンテコステ礼拝の今朝、その聖霊が降られたことで何が、より明らかにされたのか。それは「神の愛が私たちの心に注がれている」ということだった。(ロマ5:5) 本〕 Ⅰ愛は抽象的か? 「神の愛がよくわからない」と思える時があるかもしれない。愛が抽象的ならば、そもそも「信仰」も見えない世界のこと。「恵み」「喜び」「希望」といったことも抽象的に聞こえるかもしれない。でもこれらの単語全部、今日のロマ5章に書かれていた。「愛」が抽象的ではなく現実味を帯びた話になるのは、自分が誰かから愛されていたり、人を愛していたりすることを思い起こす時。先ほど挙げられていた信仰の世界の話が現実的になるのは、これらのことに、あるお方が介入して下さっているから。「私たちの主イエス・キリストによって」(1)、「このキリストによって」(2)。私たちがイエスさまから愛され、私たちも愛している。
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6月3日読了時間: 2分
26.05.17.聖日礼拝『その存在が、生きておられるイエスの愛を物語る』ヨハネ14:10~11、20~21
序〕 「父を見せてください」とのピリポの質問に対するイエスさまの答えは「わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか」(10)だった。父なる神さまは「見る」という存在ではなく、「信じる」ことが求められるお方。 本〕 Ⅰイエスさまが、ご自分のうちにおられる父を物語る 「私たちに父を見せて下さい。」と願ったピリポにイエスさまは答えられた。「あなたは見ているよ、ピリポ。長い間、わたしと一緒に時を過ごしてきたじゃないか。わたしを見た人は、父を見たのです。」(9)と答えられた。これが「わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられる」という意味で、イエスさまがうちにおられる父を物語っておられた。 Ⅱその存在が、生きておられるイエスさまを物語る ヨハネ14章のキーワード は「うちにいる」のだと教えられる。イエスさまが去られたあとに送られる「もう一人の助け主」についても「この方はあなたがたとともにおられ、またあなたがたのうちにおられる」(17)とイエスさまは語られた。そして20節「その日には、①わたしが父のうちに
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26.05.10.聖日礼拝『言葉にならない不安を覆う、この上ない助けが私たちに与えられている』ルカ9:18~24
序〕先週の5/4月~6水のRe;(西日本青年大会)のためのお祈りの感謝。 今朝は「言葉にならない不安を覆う、この上ない助けが私たちに与えられている」とのタイトルで御言葉を学ぶ。 本〕Ⅰ言葉にならない不安を抱える私たち まず弟子たちの姿に注目しよう。最後の晩餐(ヨハネ13~16章)で、弟子たちに主は何を語られたのか?そのまとめが14:28~29に書かれている。「わたしは去って行く」「父のもとに行く」「今、わたしはそれが起こる前に話した」と主が語られた時、弟子たちはどんな気持ちになったか?言葉にならない不安を抱いたのではないか。■私たちも彼らにとっての「イエスさま」のような愛し慕うその人を失ってしまうかもしれない時、この先どうなるのかという時、不安が心を覆いつくすことがあるのではないか。 Ⅱこの上ない助けが与えられている私たち ①助けとは? 「この上ない助け」とは、どこからか寄せられる「何らかの助け」ではない。私たちに与えられているそれは人格をもつ「助け主」のこと。イエスさまはその方のことを「真理の御霊」(17)、「聖霊」(26)と紹介された。.
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26.05.03.聖日礼拝『自分の限界と無力さに行き着く時、神の救いが現われる』ルカ9:18~24
序〕マタイ・マルコ・ルカの共観福音書にある今日のストーリーで、今回ルカの福音書9章を選んだのは、「「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」とのイエスさまのことばの中に「日々」との言葉があったから。そのことは結論でふれる。 本〕Ⅰ十字架を負うとはどういう意味か 十字架をイメージすることで見えて来ることは何か?両手足を釘付けにされている姿。そのことから十字架を負うとは、自分の限界と無力さというものを背負いながら生きている自分と対峙し続けることではないか。だとしたら、なぜイエスさまはそんなことを求められたのか。それは限界と無力さを意識出来て初めて私たちは「神に祈る」という世界を知れるから。そしてそんな私たちを通してイエスさまが働き出して下さるから。それなので主は私たちに「自分を捨てて、わたしに従って来なさい」と言われたのではないか。 Ⅱ神の救いが現われる時 自分の個性を殺しなさいとイエスさまは言われたのではない。「自分を捨て」と主が語られた「自分」とは“自我”のこと。神を神とも思わず
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5月13日読了時間: 2分
26.04.26.聖日礼拝『ともに重荷を担うことを、私たちに求めて下さるイエスさま』マタイ11:28~30
序〕「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。」と言われながら、イエスさまは「わたしのくびきを」重荷を負いなさいとおっしゃっている。そう語られたイエスさまの真意は何かを、今日は学ぶ。 本〕Ⅰ人はみな背負っている重荷がある 重荷を抱えたら人はどうなるか?疲れる。疲れは肉体的なものもあれば、精神的なものもある。どちらが先でも私たちは倒れてしまう。神の子であるイエスさまでさえ、地上では疲れを覚えられることがあった。体験的にご存じなのでイエスさまは私たちを招いて下さった。 Ⅱイエスさまこそ、重荷を負っておられたお方 ①働きに対する批判(11:5、6) 5節には福音の働きが書かれ、6節で主は「わたしにつまずかない者は幸い」と語っておられた。「つまずく」とは“腹を立てる”との意味だと欄外注にある。*正しいことを行なっていても理解されず、かえって批判されることは私たちも経験する ②個人攻撃(11:18、19) バプテスマのヨハネが飲まず食わずの生活をしても批判し、イエスさまが取税人たちと飲み食いしても批判する。*私たちも最善を尽
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26.04.19.聖日礼拝『苦しみを実際に通られたイエスさまが、その本当の意味を教えて下さる』マルコ8:27~34
序〕この世から苦しみがなくなるわけはない。救い主でさえも苦しまれた。しかし、だからこそ、イエスさまは私たちにその苦しみの意味を教えて下さる。 本〕Ⅰ苦しみが現実にあることを忘れてはならない 「わたしをだれだと言うか」と弟子たちとの問答の後、ご自分でキリストだと認められた。「それからイエスは」、受難告知をされ始めた(31)。普通に思い浮かぶ救い主は苦しみを取ってくれるヒーローかもしれない。しかし真の救い主はむしろご自分も「多くの苦しみを受 け」ることを宣言され、ご自分に従ってくる者も同じように十字架を負う必要があること、この世に苦しみが現実にあることを私たちに教えられた。 Ⅱ苦しみを認めたがらない私たち 受難告知をされたイエスさまをペテロは受け入れられず、脇にお連れしていさめた。そして十字架を前にしても三度イエスさまを否定した。これは苦しみというものを認めたがらない私たちと似ている。誰もが、苦しみたくないし、まして自分の十字架なんて負いたくもない。 Ⅲ苦しみの本当の意味を教えて下さるイエスさま ペテロをイエスさまは本気で叱られた。あそ
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26.04.12.聖日礼拝『『イエスの復活は、私たちを明るく前進させる』ヨハネ20:1~10
序〕 町の「復興」など表現でイメージする、どん底からの再生の概念は、イエス・キリストの復活から始まっている。今朝は復活が私たちを明るく前進させることを心に留めたい。 本〕Ⅰイエスさまが復活されていなければ、キリスト教は成立しない なぜか?復活されていなければ、イエスさまはキリストでなかったことになるから。 *ヨハネの福音書が書かれた目的(20:30,31) ①イエスが神の子キリストであること。②その事実を人々が信じるため。③信じて永遠のいのちを得るため。イエスさまがキリストであることを証明するには十字架の記録だけでは意味がない。そうであればただの人間の死に過ぎなくなるから。イエスさまは死んで終わらず、復活されたことが事実であることを証明する必要がある。もし復活が事実でなければ、私たちの宣教、信仰はむなしいとパウロも書いている。(Ⅰコリント15:14)さらには復活が事実でなければ「今もなお罪の中にいます」(同17)と書き、キリスト教が成立しなくなることを教えている。 Ⅱイエスさまの復活の物的証拠 1,墓から取りのけられていた石。(ヨハ
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26.04.05.聖日礼拝『キリストは…よみがえられました』第1コリント15:1~2、12~20 津村貴美子師
序〕2026年第81次年会を越え、今日は4月第1イースター礼拝の朝。キリストは「聖書に書いてあるとおりに」「私たちの罪のために死なれ」また葬られ「三日目によみがえられ」た。 もし、キリストがよみがえられなかったとしたら私たちの信仰はどうなっていただろう…。 本〕Ⅰ「信仰は空しく実質のないもの」となる(15:1~4) キリストの復活は、人知では計り知れない人類史上最大の出来事だった。クリスチャンの信仰と信条は復活の真意と一心同体。故に復活の事実がなければ根こそぎ倒れ事実であれば決して揺らぐことはない。復活がなければ、キリスト教会なし・クリスチャンの存在なし・復活を記念して主を礼拝する聖日なし、となる。教会そのものの存在・クリスチャンの存在そのものが、信仰は空しくない実質のないものではないことの大きな印である。 Ⅱ「宣教は空しく信仰は空しいもの」となる(15:14、17) 宣教の御業は、キリストの罪の身代わりとしての十字架の死とよみがえりを語り、▼罪の泥沼からの過去的救い ▼日々の平凡な営みの中にあってもこの道を行けばよいとの頷きと確信が与えられ
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5月13日読了時間: 2分
26.03.29.第81次年会合同礼拝『わたしに従いなさい』 マタイ16:21~28 教団代表 岩上祝仁先生
序〕今日から受難週。パームサンデーの今日はインマヌエル綜合伝道団第81次年会の最終日、全国の教会をオンラインで結び、合同礼拝を守る。信仰者として私たちが歩む時、罪赦され、神の御国に入れる。しかしそこで安心して止まるのではなく、キリストの似姿に変えられることを主は願っておられる。今日は、イエスさまから今日のみことばを語られたペテロに焦点を当てる。彼は三度、 「わたしに従いなさい」と主から語られた。 本〕Ⅰマタイ4:18,19 これはペテロへの召命。主はご自身に従う者を求めておられる。それはイエスさまの奉仕の目的が弟子づくりだから。漁師の彼にわかるように「人間をとる漁師にしてあげよう」と主は語られた。*天の御国に入れることだけでも望外の恵み。しかしその先がある。様々な葛藤を通らされる人生の中で、イエスさまと一緒に歩む「きよめの生涯」がある。 Ⅱマタイ16:24 イエスさまに従ったペテロに、さらに主は自分の十字架を負うことを求められた。なぜ敢えてそれのことを彼に強調されたか?それは、ペテロが十字架を認められなかったから。*私たちも十字架を負うこ
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5月13日読了時間: 2分
26.03.22.聖日礼拝『イエスさまのご生涯の大一番にこそ』マタイ21:1~5
序〕今年は2/18水からレント(受難節)に入っていて、来週3/29から受難週に入る。そしてその日は27金から始まっている第81次年会の最終日の合同礼拝が行われる。それで一週早めて今朝は受難週初日の出来事を取り上げる。 本〕Ⅰイエスさまの大一番にこそ、用いられるのは 聖書には弱くて小さな、どこにでもいるような平凡な人々が神さまに用いられて大切な御用を果したという例が少なくない。イエスさま誕生の時はマリア。イエスさまが十字架にかかられる場所エルサレムに入られる時に用いられたのは「子ろば」だった。ろばはそれほど大きくもなく、力もない。速く走れるわけでもない。この姿は平凡な私たちの姿と似ていないか。その子ろばをほどいてご自身のために主は用いられた。私たちも罪から解放されて、「わたしのためにあなたが必要なのだ」と声をかけて下さって今がある。大一番の時に主は私たちを用いて下さる。 Ⅱイエスさまの大一番にこそ、はっきりされるのは わざわざ子ろばに乗って来られた意味は何だったのか?ご自身は戦いのために来た王ではないこと。馬に乗ってくる王は戦の大将。しかし子ろ
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26.03.15.召天者記念礼拝『何が人を生かすのか-ぬくもりのある存在になるために』ヨハネ11:31~44
序〕召天者記念礼拝では、天に召された方々の信仰について語られることが多いが、今朝は故人を偲ぶご遺族に寄り添って下さる主の愛を心に留める。 本〕Ⅰ死を悲しむ私たちの隣にいて下さるイエスさま ①生後4時間で二人に抱かれたまま娘を亡くした友人ジョナスに涙を流して寄り添うヘンリー・ナーウェン。 ②ラザロの死を悲しむ姉妹マルタとマリアのもとに来られて涙を流されたイエスさま。彼女たちを生かしたものは何だったか?「ラザロよ。出て来なさい。」との力強い宣言も確かに励ましになったはず。神としてのイエスさまがラザロを生かされた。しかし、彼女たちを生かしたのは何だったか?むしろひと言もおっしゃらず、ただ涙されたイエスさまのお姿ではなかったか。人は言葉を越えた「共感」に救われるのではないか。 Ⅱぬくもりのある存在になるために どうすればイエスさまのように、悲しむ人のそばにいることが出来る人になれるのか。それは「いったい何が人を生かすのか」という大切な問いを自分事にしてしっかり考え、すぐ身近な人にその考えたことを実践してみることではないか?生活をともにしていると、
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5月13日読了時間: 2分
26.03.08.聖日礼拝『私たちの声を聞き、目を開いて、ご自身を示して下さる神』創世記21:14~21
序 〕 今朝覚えたい二つのみことばは、①「神は少年の声を聞かれ、」(11) ②「神がハガルの目を開かれたので」(19)。 この少年とハガルは親子。 本〕 Ⅰ私たちの声を聞いて下さる神 ①いつ神は少年の声を聞かれたのか?―少年の母が「声を上げて泣いた」時。 ②母はなぜ泣いたのか?-「あの子が死ぬのを見たくない」(16)と思った母があまりに少年の人生の短さを切なく思って。 ③この親子の人生に何が起こったのか-アブラハムの妻サラが「この女奴隷とその子を追い出して下さい。」(10)と言い、神さまの後ろ押しもあって、アブラハムが泣く泣く荒野に送り出した。11節に「アブラハムは非常に苦しんだ。」とある。イサク誕生の喜びと「笑い」(イサクの名前の意味)のあふれる出来事。そもそもこの約束の子のためにアブラハムは選ばれ、そこからのイスラエル民族が祝されると計画されていた。その素晴らしい出来事が書かれている同じ21章にハガルとイシュマエルの追放という切なくも苦しい出来事が記されている。*これが私たちの人生の現実。喜びと悲しみが同居している。■荒野でいのちが尽きそ
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3月17日読了時間: 2分
26.03.01.聖日礼拝『心に安らぎがない者からも、キリストの香りは放たれる』Ⅱコリント2:12~14
序 〕キリストの香りを放つ」と象徴的に言われるような、「証の立つクリスチャン」とは、穏やかで、あまり動じない人のように思いがち。しかし、今日のタイトルのように「心に安らぎのない者からも、キリストの香りは放たれる」 本〕 Ⅰ心に安らぎのない時は誰にだってある 順風満帆で何の波風もなかったという人はいないはず。■パウロはどうだったか?コリントの第二の手紙を書いた動機はその前に書いた「悲しみの手紙」の反応を知りたかったから。事の起こりは教会の中で赦しがたい罪を犯した「その人」へのパウロの処置を見てコリントの信徒たちはつらくなった。それを聞いて一度は教会を訪問しようと思ったが、パウロは手紙を書くことにした。それが「悲しみの手紙」。その反応をトロアスでテトスから聴けると思っていたのに聞けなかった。それで心に安らぎを失った。(13) 手紙のゆえに余計に彼らを傷つけたか?パウロも心配した。 Ⅱ平安がない時だからこそ 心に安らぎを失ったパウロだったが、その後の彼の態度から平安がない時だからこそ、どうすればよいかを教えられる。 ①前進~「マケドニアに向けて
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3月17日読了時間: 2分
26.02.22.聖日礼拝『神さまに知られていることの幸せ、この圧倒的な恵み』Ⅱサムエル記7:16~20
序 〕 「神である主よ、あなたはこのしもべをよくご存じです。」(20)このひと言に込められたダビデの感謝と感動を、今朝はともに味わいたい。 本〕 Ⅰ御心を確かめる祈り 自分だけが杉材で造られた立派な王宮に住んでいるのに神さまは?という思いから神殿建築の計画を持ったダビデ。「人には自分の行いがみな純粋に見える」(箴言16:2)とあるとおり、ダビデも自分の計画は良きものだと思ったはず。しかし彼の素晴らしい点はすぐに行動に移す前に、第三者(預言者ナタン)に相談した点。その真意は神殿建築が神の御心かを知ることにあった。「人は心に計画をもつ。しかし、舌への答えは主から来る。」(同1) *私 たちもまず主にお伺いし、何でも祈ってから事に取り組む姿勢を身に着けたい。 Ⅱノーと言われる神 神殿建築は息子ソロモンに継がせると神はダビデに語られた。私たちの心に生じた願いが必ずしも神の御心にかなうとは限らない。神は 私たちの与り知らない絶妙なタイミングとそれ以上の計画をご存じである。「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、主が人の歩みを確かにされる」(9)形だけ
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3月17日読了時間: 2分
26.02.15. 聖日礼拝『『木にも、私たちにも望みはある』ヨブ14:7~9
序 〕 「木には望みがある」で始まる今日の部分は美しい表現である。しかし14章の文脈から読み取ると、絶望したヨブが木へのあこがれ、やや皮肉も込めて語った言葉だとわかる。「木には望みがある。でも人間は・・」という具合に。 本〕 Ⅰ人間が抱えている悲しい現実 木に比べて「しかし、人は死ぬと倒れたきりだ」(10)とヨブは続ける。人間の現実は死んだらおしまいとヨブは結論づける。彼は大試練に見舞われた。三人の友が励ますために来たが、かえって議論によって彼を落ち込ませた。14章はその一回目の議論の結びで、絶望する彼から出たのが、「たとえ木には望みがあっても、人間は死んだら終わり。木のように新しい芽が吹くわけではない」という悲しい現実。しかし・・ Ⅱその現実を希望に変えて下さる神さま 絶望の人生を過ごし、死んで終わりというあきらめを抱いていたヨブだったのに、一つの問いを神に投げかける。「人は死ぬと、また生きるでしょうか。」(14) 木を見て、自然界に再生の希望があるならば、同じ神からいのちを受けた人間にも望みはあるのでは?そう考えた彼は「私の代わり」が
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3月17日読了時間: 2分
26.02.08. 聖日礼拝『『預けられた「時間」の使い方の見直し』マタイ25:19~21
序 〕 タラントは、「賜物」「頂きもの」「才能」などと訳せる。今朝は、そのタラントを、 神さまから預けられている「時間」に適用させて考える。 本〕 Ⅰこのたとえ話で想像できるシチュエーション どんな状況で主人はしもべたちに金を預けたか? ①三人全員一緒に呼ばれて順番に預けられたか? ②別の場所で、違ったタイミングで預けられたか? *想像力を働かせて聖書読むのは悪いことではない。但しそこに固執してはいけない。私は②だと思う。 Ⅱこのたとえ話の中心点-このたとえは比較の話ではない。 五タラント預けられたしもべは、二タラントのしもべと競ったのではなく、預けられたタラントをど使うか考えてベストを尽くした。だから「良い忠実なしもべだ」とほめられた。 このたとえ話は比較の話ではなく、忠実さを問う話。一タラントのしもべは地中に隠してそのまま出してきた。だから減っていたわけではなかった。でも主人は「悪い、怠け者のしもべだ」と怒った。忠実さを求めていたからだ。 Ⅲ預けられた「時間」の使い方の見直し ①比較の話ではないであれば、五・二・一の数字は関係なく
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3月16日読了時間: 2分
26.02.01.教会総会礼拝『現実との戦いの中で、なおも私たちが光を放つ存在となるために』マタイ5:10~16
序 〕 「内から外へ、主の光を放つ年」との今年の目標を考える時、実際の生活で具体的な問題となることは何か?主は「ののしり、迫害し、悪口を浴びせるとき」と語られて、キリスト者を良く思わない人たちの中で私たちが輝きを放つためにはどうすればよいかを教えて下さった。 本〕 Ⅰ視点を変えること-私たちが人間関係で戦いを覚えるのはどんな時か? それは目の前の、自分たちのことを攻撃してくる人たちのことしか見えていない時ではないか?そうではなく、主は「天の御国」のこと(10)、天で私たちが頂けることになっている「報い」のこと(12)を思って、むしろ「大いに喜びなさい」と教えて下さった。人との関係で疲れる時、このように視点を変える。私たちの国籍は天にある。地上でいながら御国を思って生きよう Ⅱ自分の存在価値を見失わない 恐れ多くも私たちを「地の塩、世の光」としてすでにイエスさまが見て下さっている。どうして私たちの存在が疎ましく思われたり、きつく当たられたりするのか?それは私たちに塩気があるから、無意識のうちに光を放っているからだ。そのくらい思って、目の前の
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2月5日読了時間: 2分
26.01.25.聖日礼拝『とてつもない神さまの愛が、私たちの存在を輝かせる』イザヤ55:1~5
序 〕 今日の中心聖句は5節「「主があなたを輝かせたからだ。」 今年の目標は「内から外へ、主の光を放つ年」。そのためには視野の拡大が必要。その実例として、先週はエリシャの召使いの目が開かれた出来事から学んだ。 本〕 Ⅰ私たちに対する神さまの深すぎるあわれみ その深い感情は2節。「なぜ、あなたがたは、食糧にもならないもののために金を払い、腹を満たさないもののために労するのか。」これは私たちを責める言葉ではなかったと思う。「どうしてそんなもののためにあなたたちの大切な時間や体力を使うのか。そうではなく今すぐわたしのところに来なさい」という神さまの深いあわれみがほとばしり出た言葉だったのではないか。子に対する親心にも似た感情である。 Ⅱ私たちに対する神さまの強すぎる招き 「水を求めて 出て来るがよい」 (1)、「耳を傾け、わたしのところに 出てこい 」■「水」「穀物」「ぶどう酒」「乳」など、全部私たちのいのちを生かすもの。それを「金を払わないで買え」「代価を払わないで」 とあるのは、それらが神の一方的な恵みによって与えられることを意味する。これは永
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2月5日読了時間: 2分
26.01.18.聖日礼拝『現実を変えるのでなく、私たちの目を開いて下さる神さま』Ⅱ列王記6:15~23
序 〕今日の箇所で覚えたいキーワードは二つ。①包囲する ②目が開かれる 本〕 Ⅰ預言者エリシャと召使いが置かれていた現実 アラム軍の馬と戦車の軍隊が彼ら二人のいた町を「包囲していた」 この状態になるまでの状況説明(6:8~14) 作戦会議をすべて見破られていたことに激怒したアラムの王。その原因となったエリシャを捕えようとしてアラム軍が町を包囲した。■どうにもならない現実に取り囲まれていると感じている人が今日いるかもしれない。 Ⅱ目が開かれた召使い 目覚めた彼が見たものは夢ではなく現実だった。それは自分を見失うほどの光景だった 「ああ、ご主人さま。どうしたらよいのでしょう」(15)■「この厳しい現実から救って下さい」とか「この問題を今すぐ取り除いて下さい」とエリシャは祈ったわけではなかった。ただひと言「目を開いてください」と祈った。私たちもエリシャの祈りを自分の祈りにしなければならない。ある意味、目の前の現実を変えて下さいと主に祈ってもきっとそのような奇跡は起こらない。なぜなら、それがキリスト教ではないから。聖書が伝える神さまは私たちが目覚めた
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2月5日読了時間: 2分
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