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25.12.14.聖日礼拝 アドベント第三週 『ともにいて下さる神・救い主イエス』マタイの福音書 1章22~23節

  • 執筆者の写真: 佐賀教会 インマヌエル
    佐賀教会 インマヌエル
  • 2025年12月25日
  • 読了時間: 2分

〕 今朝は「ともにいて下さる神・救い主イエス」というタイトルで、二つのことを

   心に留めたい。

 

本〕Ⅰ聖書が伝える神とは?

それは「ともにいて下さる神」ということである。どこかの観光地に行くと、そこにはお寺や神社がある。年に一度、あるいは特別な時にそこに行ってお参りをする人もいる。けれども聖書が伝え、キリスト教が示す神さまはどこかに行く必要がない。ずっと私たちとともに、私のそばにいて下さるお方である。■「その名はインマヌエルと呼ばれる」と書かれていたが、誰がそう呼ばれたか?イエスというお方である。このお方の人生はインマヌエルそのものだったと言える。「それは、訳すと「神がともにおられる」という意味である。」イエスさまがそばにいて下さる時、人々は神が自分とともにいて下さる愛を感じたに違いない。聖書が伝える神とは、ともにいて下さる神さまで、

私たち人間にイエス・キリストとして示されたお方である。

 

聖書が伝える救い主とは?

 どこからか飛んできて助けてくれるスーパーマンのような救世主ではない。当時のユダヤ人もそう考えた。だから家畜小屋で生まれ、大工の息子という自分たちとさして変わらない育ちをしたイエスさまを救い主だとは信じられず、その期待を裏切られたということで十字架につけた。しかし、彼らの言う「自分たちと変わらない」姿で敢えてこの世に来て下さったから「救い主」だったと言える。このお方は天から見下ろして人間を哀れに思うだけの神ではなく、天から降りて来られて私たちと苦しみ、悲しみを一緒に体験し、「あなたは一人ではない。わたしが一緒だ」と言って下さる救い主であった。

 

結〕 全く無力な赤ちゃんの姿でこの世にお生まれになり、挙句の果てには十字架についてしまうという、人から見たら無力さの極みの姿をこの世にさらしたお方が救い主だったのだとキリスト教は教える。そんな姿でイエスさまがこの世で生きられたのは、弱くて罪深い私たちと神さまがともにおられることを伝えるためだった。この救い主は今も生きておられる。

 
 
 

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