26.05.03.聖日礼拝『自分の限界と無力さに行き着く時、神の救いが現われる』ルカ9:18~24
- 佐賀教会 インマヌエル
- 5月13日
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序〕マタイ・マルコ・ルカの共観福音書にある今日のストーリーで、今回ルカの福音書9章を選んだのは、「「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」とのイエスさまのことばの中に「日々」との言葉があったから。そのことは結論でふれる。
本〕Ⅰ十字架を負うとはどういう意味か
十字架をイメージすることで見えて来ることは何か?両手足を釘付けにされている姿。そのことから十字架を負うとは、自分の限界と無力さというものを背負いながら生きている自分と対峙し続けることではないか。だとしたら、なぜイエスさまはそんなことを求められたのか。それは限界と無力さを意識出来て初めて私たちは「神に祈る」という世界を知れるから。そしてそんな私たちを通してイエスさまが働き出して下さるから。それなので主は私たちに「自分を捨てて、わたしに従って来なさい」と言われたのではないか。
Ⅱ神の救いが現われる時
自分の個性を殺しなさいとイエスさまは言われたのではない。「自分を捨て」と主が語られた「自分」とは“自我”のこと。神を神とも思わず、自分の力だけで押し通せると思う自我を捨てるように語られたのである。確かにがんばることは悪くない。突き詰めることで限界と無力さを知れることからすればそこにも意味がある。但しがんばる前にまず神に祈ること。神にゆだねて御心を貫いていく。なんとなれば、これはイエスさまの姿。だから「日々、自分を捨ててわたしに従って来なさい。」とはご自分と同じ道をたどらないかというイエスさまの招きだったと思う。そのようにして自分の十字架を負って従うことで、私たちはキリストの似姿に変えられていくのである。(例話:アフリカへの医療宣教師の息子の死)
Ⅲ十字架を負うその本人から現れるもの
それはイエスさまのお姿。限界と無力さを覚える私たちを通してキリストが現われて下さる。*今日のストーリーで「わたしをだれだと言っているか」と主が尋ねた時、弟子たちは、群衆が「バプテスマのヨハネだ」と思っていると答えた。どうして大きな奇跡を行なったエリヤの名前が先に挙が らなかったのか?思うに群衆はバプテスマのヨハネとイエスさまに一つの共通点があると思ったからではないか?それは神の御言葉に生き、きよい生活を貫いた姿勢。そのような姿を通して人々は救われていったのだ。
結〕「日々」とは毎日のこと。毎日の生活の中で、限界と無力さを覚える私たち。でもそれ
を意識しつつ、主に従う時、土の器である私たちからイエスさまが輝いて下さる。
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