26.04.26.聖日礼拝『ともに重荷を担うことを、私たちに求めて下さるイエスさま』マタイ11:28~30
- 佐賀教会 インマヌエル
- 5月13日
- 読了時間: 2分
序〕「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。」と言われながら、イエスさまは「わたしのくびきを」重荷を負いなさいとおっしゃっている。そう語られたイエスさまの真意は何かを、今日は学ぶ。
本〕Ⅰ人はみな背負っている重荷がある
重荷を抱えたら人はどうなるか?疲れる。疲れは肉体的なものもあれば、精神的なものもある。どちらが先でも私たちは倒れてしまう。神の子であるイエスさまでさえ、地上では疲れを覚えられることがあった。体験的にご存じなのでイエスさまは私たちを招いて下さった。
Ⅱイエスさまこそ、重荷を負っておられたお方
①働きに対する批判(11:5、6)
5節には福音の働きが書かれ、6節で主は「わたしにつまずかない者は幸い」と語っておられた。「つまずく」とは“腹を立てる”との意味だと欄外注にある。*正しいことを行なっていても理解されず、かえって批判されることは私たちも経験する
②個人攻撃(11:18、19)
バプテスマのヨハネが飲まず食わずの生活をしても批判し、イエスさまが取税人たちと飲み食いしても批判する。*私たちも最善を尽くしたつもりでも評価されず、理不尽な扱いをされることがある。
Ⅲ疲れやすい私たちへの温かな招き
重荷を負っている人をご自身のもとに招いていながら、「わたしのくびきを負いなさい」と語っておられる。その真意は?
①重荷を下ろしてあげますとはおっしゃっておられない。~「休ませてあげます」と主はおっしゃられた。人には下ろせない重荷もあることを主はご存じでいて下さった。イエスさまもそのとおりで、福音を伝えて救うという重荷をイエスさまは途中で下ろさずに最後まで負って下さった。だから主が負って下さった十字架のゆえに私たちに救われる道が開かれた。
②同じ負うべき重荷でも、「わたしのくびき」とイエスさまは言いかえておられる。
イエスさまはご自身の重荷(くびき)を私たちにもともに担うことを求めて下さった。キリスト者になることは決して人生バラ色になることではない。むしろ、日々「自分の十字架」を負って従うことを求められる。しかし「くびき」と主が語られた以上、私たちが一人で負うのではないことを教えて下さっている。「首木」は二頭の牛や馬が歩調を合わせて畑を耕す道具。イエスさまと共に私たちは十字架を負うのだ。
結〕「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい」と主は招いて下さった。私たちはイエスさまから人生を学び、それで「たましいに安らぎ」を得ることが出来る。
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