礼拝メモ 250720
- 佐賀教会 インマヌエル
- 2025年7月27日
- 読了時間: 2分
『置かれた環境で、神の栄光を現す』マタイ26:36~46
序〕
「置かれた環境で」と言った時、神を抜きにして生きている人々はそれを「運命」と称してあきらめて仕方がないという。しかし信仰者が心に留めておきべき言葉は「摂理」だと思われる。今日の中心聖句はロマ書8章28節。
本〕
Ⅰ自分の置かれている「立場」を考える
-Ⅰコリント6:19,20「あなたがたはもはや自分のものではない。代価を払って買い取られたもの。だから自分のからだで神の栄光を現しなさい」 私たちの立場は、まずは神に造られた存在。そして代価を払って買い取られたほど愛されている存在と言える。この存在価値を知ることから始めないと、環境に振り回され、その下敷きになる。
Ⅱその環境に私たちが置かれている意味
-それは「摂理」と関りがある。摂理とは何か?神が愛する者のために最善と思って用意して下さっているご計画のこと。但し、その計画はあくまで神が私たちのために最善と思って
下さっていること。だから感情的なことからすると私たちが望ましくないと思う場合があり得る。どうしてこんな状況で、環境でいなければならないのかと不満になることもある。しかし私たちをご存じで、永遠を支配しておられる神さまが私たちの人生の全体像を見つつ置かれているのがその環境だと理解する時、これも神の摂理だと頷けるようになる。
Ⅲ置かれた環境で神が私たちにして下さること
-ゲッセマネのイエスさまは最悪と思われる環境で何をされたか?①まずその置かれていた環境で感じておられたそのままを神さまに訴えられた。「この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」~私たちも自由に祈ることが出来る。②そのままを訴えたあと、イエスさまは全部を神さまにゆだねられた。「あなたが望まれるように、なさってください」この祈りが出来てイエスさまは十字架に向かわれた。置かれた環境で神が私たちにして下さることは、その環境ではなく、私を変えて下さること。その時の私は環境を見る目が変えられている。
結〕
イエスさまは「立ちなさい。さあ行こう」と言って私たちと一緒に戦って下さる。
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