25.08.24. 聖日礼拝『「通じない愛」の持って行き場はどこか?』詩篇109篇1 ~5節
- 佐賀教会 インマヌエル
- 2025年9月7日
- 読了時間: 2分
序〕二週前の礼拝で「愛は神から出ているのです」(Ⅰヨハネ4:7)との御言葉から、
神の愛で自分も愛されていることを教えられた。そして人を「愛さなければ」
と力まなくてもよいことを知った。今朝はその先の話である。
本〕
Ⅰ愛は通じるか?
答えはNo。「愛はきっと通じる」「誠意は必ず人に伝わる」と信じたい。でもそうならないことが多いことは誰もが知っている。■ダビデはそのことを痛いほど体験してきた。「彼らは、善に代えて悪を、愛に代えて憎しみを私に返しました。」(5)これが現実。■ダビデだけではない。旧約聖書ではモーセもエレミヤも出てくる。新約聖書ではパウロがコリント人への手紙で信徒たちに「あなたがたを愛すれば愛するほど、私はますます愛されなくなるのでしょうか」(12:15)と書いている。この言葉は私たちの心にも刺さる。
Ⅱ神の愛は通じたか?
二週前の礼拝で学んだように、神の愛の示された方はどうだったか?「ひとり子を世に遣わし、その方によっていのちを」得るようにして下さっていた。(Ⅰヨハネ4:9)神の愛は概念ではなく、哲学でも思想でもない。神の愛はイエス・キリスト。人格をもったキリストの生きざまが神の愛。でもその愛は通じたか?神の愛に対する人の応えは・・・十字架だった。「善に代えて悪を、愛に代えて憎しみを」というのはイエスの生涯そのものだった。
Ⅲ「通じない愛」の持って行き場はどこか?
愛が報われなかったダビデは言っている。「私は祈るばかりです。」(4) 愛が通じない。伝わっていかない。そんな時、私たちも神に祈ろう。なぜならば、愛が通じない体験をされたのは神さまだったから。■愛が通じない生涯を送られたイエスさまも何度も神に祈り、十字架上でも祈られた。「父よ 彼らを赦して下さい」(ルカ23:34) 愛が通じないと私たちは傷つき、その人のことをとても赦す気にはなれない。だから、そんな私たちに代わって、十字架上で主は祈って下さったのではないか?罪ある私たちもこの祈りで救われ、人を赦せるようになる。
結〕 私たちの反応に関わらず、これほどまでに愛して下さっている神さまを愛そう。
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